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それでも、日本人は「戦争」を選んだ あの授業を受けた生徒たちは今

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『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』で登場した栄光学園の生徒たちは現在30歳前後。

講義を担当した加藤陽子さんは、学術会議候補の任命拒否問題で注目を浴びることに。
参加者の一人の「開戦前も、日本はああだったんだろうなと思いました」という言葉に頷く。
こういう授業を、ちゃんと日本の教育カリキュラムに導入する必要があるんじゃないかな。
書籍「それでも、日本人は『戦争』を選んだ」は読は読みました。いい本だし、良い授業だったんだろうなとは思っていました。受講した生徒がよく覚えているのにホッとしている。
《「戦争になったのは軍が暴走したからだ、という単純な話ではなく、その場その場では『合理的』な判断をしたはずが、戦争を選んでしまった――授業でそう教わったのを思い出します」》

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日本が追い詰められて戦争させられたという事を知っている加藤先生は、決してそれを言わない。悪い教育をするために。
日本人が戦争を選んだ理由に、国際情勢を自ら分析もせずに、朝日を筆頭とする新聞が無責任に国民を煽っり世論誘導した責任が大きいのを忘れているのでしょうか?
"政権は、日本学術会議が推薦した会員候補6人の任命を拒んだ。その1人が加藤さんだった(..)「何を目的に、誰が決めたのか、責任がはっきりしないまま、なんとなくものごとが動いていく。開戦前も、日本はああだったんだろうなと思いました」"

あの授業を受けた生徒たちは今
やはり多様性。
生物が続くにはその方法しかないのだな、きっと…

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菅前総理も安倍元総理も、潜在的な戦争犯罪者では? 彼らを支持して、臆面もなく公文書を隠蔽·改竄·破棄した忖度官僚も同罪なのでは?
弁護士・高校教師の神内聡さんがこの記事にコメントしました。

【視点】詰め込み式の日本型学校教育の対極をなす画期的な教育方法として現在でも進学校を中心に影響を与えているドルトン・プラン。...
で、社会面であの生徒たちが…と振り返りつつの、日本学術会議の問題ですよ…
参考資料:
自民党を支持して滅びる

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〈当時の国民は、戦争に至る道をいやいや進んだわけでは必ずしもなかった……日米が開戦した12月8日や直後の日記……「人々みな喜色ありて明るい。昨日とはまるで違う」〉楽観論が先行し回り出した歯車は止まらないという構図は、コロナ下で開かれた今夏の東京五輪にも通じる〉
何度も言いますが、一人の意見であってもその意見をキチンと主張できる事と、その一人の意見を他の人がキチンと尊重する事とは、とても重要なことだと思います。全体の風潮にそぐわないからと排除する社会の結果がどこへ行きつくのかしっかり考える必要があるように思います。
当時開戦煽りまくったのが朝日新聞なのに今更何を言う
>開戦時、日米の国力には大きな差があった。加藤さんは授業でこう説いた。「こうした差を、日本の当局はとくに国民に隠そうとはしなかった。むしろ、物的な国力の差を克服するのが大和魂なのだということで、差異を強調すらしていました」

ほんと“大和魂”って厄介よね…
この記事読みたいなあ…記事単位で課金できるようになればいいのに。
「それでも、日本人は『戦争』を選んだ」。14年前、 の でこんな授業が始まりました。 の 教授が、日本近現代史での「戦争の論理」を説きました。いま30歳前後の生徒たちに、日本社会はどう映っているのでしょうか。
学術会議の任命拒否と戦争を結びつけるのは強引な屁理屈。稚拙なレトリックで印象操作をする左翼メディアには呆れるわ。
ちょうど今、加藤先生の小林秀雄賞受賞作「それでも、日本人は『戦争』を選んだ」(新潮文庫)を読んでいたので偶然に驚いています。>
歴史学習の大切さを改めて感じる。:
この本、ちょうど加藤さんが任命拒否された時に今の夫がこの本を買ってきて薦めてくれて読んだんですが、本当に今に通ずるものがあると思う。
今日は12月8日。真珠湾攻撃から80年です/
同期の記者が執筆した記事です。12月8日のきょう、心にとどめておきたい言葉がたくさんありました。

「何を目的に、誰が決めたのか、責任がはっきりしないまま、なんとなくものごとが動いて行く。開戦前も、日本はああだったんだろうなと」
結構衝撃的だった↓
「日本国民の決意は一つに燃えた。爽やかな気持ちであった」(中国文学者・竹内好)▽「人々みな喜色ありて明るい。昨日とはまるで違う」(小説家・伊藤整)・・・
14年前の授業で開戦に至る歴史を学び、自分ならどうするかと考えた経験が、大人になった生徒たちの今を生きる糧になっている。そのことが伝わる記事です↓

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おすすめです。
「日本人は「戦争」を選んだ」から戦争が始まった、と言う言い方に拘るが。しかし、その根底は、日本人は戦争はよその国でやるものと思っていたからだろう。空襲があるまで戦争は全て外国であった。
名著です。授業も良かったでしょう。
最近朝日の記事に少し批判的だが 加藤さんの授業を聞きたかった。その後新書を読んだけれど。
学術会議の任命拒否「開戦前も、ああだったんだろうな」
日本学術会議、東京五輪の問題まで包含した良フォローアップ記事。「当時生きていたら自分はどうふるまったかを想像して」「政治家だけでなく国民もまた、歴史をつくる当事者だから」。正気を保たねば。
アジア太平洋戦争開戦から80年目の12月8日です。
「「戦争」は違う顔で現れる 見過ごさないで」と、加藤陽子・東京大教授。
こんなにも簡単に戦争を仕掛ける時代が2度と来ないように歴史から学ぶ大切さ実感。敵基地攻撃法案を絶対成立させないように日本国民として声をあげよう。
加藤陽子教授、私立栄光学園の中高生に⇒
今の日本も重なるんじゃないか?
「加藤さんは授業で、当時生きていたら自分はどうふるまったかを想像して、と繰り返した。政治家だけでなく国民もまた、歴史をつくる当事者だからだ」
良い教育だ、これが目指すべきところ(の少なくともひとつ)だ、っていう気がする。
人間は、組織は、判断を誤ることがある。だからこそ自分の主張と違う意見を排除しないことが大切。
とても重い言葉だ。
(笑)学術会議の任免をされなかった加藤陽子教授だろう。この記事がその理由を如実に現していると思いますが。根本的に間違っている。
それでも、日本人は「 あの授業を受けた生徒たちは今
朝日新聞


用語:市民ではなく国民(臣民)、
教育:兵士育成を目的、
経済:富国優先
信仰:国家神道強制、
軍事:シベリア利権獲得に失敗⇒満州侵攻の背景?

要は長州式(奇兵隊?)の強制の失敗さ。

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引用「それでも、日本人は〜」と書名に掲げた本は小林秀雄賞を受け、文庫本とあわせてこれまでに累計で43万部が発行されている。加藤さんから届いた本を生徒たちは本棚に大切にしまっていた。彼らの多くが「加藤陽子」の名前をふたたび意識するようになったのは(続
加藤氏が80年前の戦争だけではなくそれ以前の世界と日本の近現代史を視野に入れて、決して騙されたわけでもなく、国家として「選んだ」「決定した」社会構造やプロセスを分析している。
『何を目的に、誰が決めたのか、責任がはっきりしないまま、なんとなくものごとが動いていく。開戦前も、日本はああだったんだろうなと思いました』
〝事実〟を積み重ねて歴史と向き合う事はとても大事。同じ過ちを繰り返すのはマヌケな事です。
【あります】
本日朝日新聞で大きく紹介記事がでていた加藤陽子『それでも日本人は「戦争」を選んだ』在庫ございます:->!
反省を生かさない、戦前と同じように世論を誘導してやろうという意思が見える記事でした。
いまから14年前の12月、少しかわった「授業」が神奈川県鎌倉市で始まった。「それでも、日本人は『戦争』を選んだ」。
今日は12月8日。
加藤陽子のこの本読んでいただきたい #
あの授業を受けた生徒たちは今
おはようございます☀日米開戦から80年ですね、元史学科生の私はかなしくなって泣いてしまう日です。明治維新後「日本人」は「戦争」を選び続けた、逃げずに向き合い続けたいです。
> 開戦時、日米の国力に大きな差があり、加藤は授業の中で「こうした差を日本の当局は国民に隠そうとはせず、むしろ物的な国力の差を克服するのが大和魂なのだと差異を強調」した
> 菅義偉政権は、日本学術会議が推薦した会員候補6人の任命を拒んだ。その1人が加藤だった。
14年前に撒かれた種が…。
「話に付いていくのに必死だった」
よく付いていったと思うわよ。
私も今一度読み返そう。
教育の成果が出るには時間がかかる 80年前を繰り返さないための教育を大事にしよう
歴史を学び教訓を得ることのない、安倍晋三のようなクズを政治家にしておけば、どういうことをするか、国民はよーく考えるべき。
記事が公開されました。「それでも、日本人は『戦争』を選んだ」のその後。「何を目的に、誰が決めたのか、責任がはっきりしないまま、なんとなくものごとが動いていく。開戦前も、日本はああだったんだろうなと思いました」
朝日は慰安婦問題を作った反日極左であるのは知られているが、加藤もまた、南京事変を作り上げている反日の極左である。
非常に似た立場である。学術会議と言う国家公務員の器でない。
加藤陽子氏の『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』は高校での短期集中講義をもとに書かれた著作で、本記事はその講義を受けた学生の「その後」に触れている。加藤氏が渦中の人となった学術会議任命問題にも注目し、あの頃との類似性を描く点は読ませる内容になっている。
「それでも、日本人は~」と書名に掲げた本は累計43万部発行されています。生徒たちは本棚に大切にしまっていました。

彼らの多くが「加藤陽子」の名前をふたたび意識するようになったのは2020年でした。
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