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《ナンシー関没後19年》「約束を果たさないまま、逝ったのが心残りだったんだと思います」稀代のコラムニストの知られざる“晩年”

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今の時代もナンシー関さんがいたら…
何度か大月隆寛の名が、一度リリー・フランキーの名が出ている。
『人間晩年図巻』より
『人間晩年図巻』より
この人が今生きていてくれたらと思うことが何度もある。今のテレビのあまりの凋落ぶりを見たら何というだろう?エンタメの中にこういう誰でも理解できる知性がなくなってしまった。
『人間晩年図巻』より 律儀な方という印象があります。
「心に1人のナンシーを」
今でもテレビを観るたびにナンシーさんなら何て書くんだろうと思う事ある。
宮部みゆきさんも彼女のファンだったのは知らなかったな。
憧れでした。

『人間晩年図巻』より
今も年に少なくとも3回は思い出す。ナンシーさんだったらどういうんだろうって。あのときは驚きで目の前が真っ暗になった。
”テレビ批評コラムは、89年、10代向け少女雑誌「ポップティーン」で初めて書いた。その冒頭、26歳のナンシーの言葉。

「若者よ、ばかを恐れるな。ばかになるけどテレビを見よう。テレビはぜんぜんこれっぽっちも役に立たないけどおもしろいぞ。何いってんだかなぁ」”→
マツコをさらに毒々しくして、それでいて正鵠を射ているのがナンシーだしね。
亡くなったの39歳だったのか、早いなぁ……( ˘- з-)
『人間晩年図巻』より
ナンシーさんのコラム大好きでした。
中目黒の焼肉屋ビックママが宮下公園の屋台だった時代、打ち上げで貸切状態にしてしまい、常連のナンシーさんをはじめとする常連さん方に迷惑をおかけしました。この場を借りて謝罪をします🙇‍♀️RIP.
時々、ナンシーが足りないと感じる
いい笑顔…😭あれから19年か。日韓ワールドカップの最中だったな。

青森のご実家に伺ってお線香つけてそのあと棟方志功記念館行ったんだよなー。
『人間晩年図巻』より
モヤモヤしても「言語化できないことをさらりと表現できる」この才能に何度も膝を打った記憶が。

昨今のTVに登場する政治家も多くが批評の素材にされていたでしょう。彼女がどんな批評をするのか読みたかったなぁ。生前存在しなかった「維新」も「れいわ」も含めて。
ホントTV効果抜群だったね。
国民総白痴化
松子のことをジェネリック・ナンシー関と呼ぶなー!(誰も言うてないって?)
関川夏央「いとうは、関直美にペンネームをつけてやって欲しいというえのきどの頼みに気軽に応じ、ペーター佐藤とかスージー甘金とか国籍不明のペンネームがイラストレーターに流行していた折から、直美の「ナ」をとってナンシー関はどうかと提案」
本当に惜しい人を亡くした。

この方を描いたドラマも秀作だつた。
『人間晩年図巻』より すごく好きだったので亡くなったときの衝撃たるや。
『人間晩年図巻』より あまりテレビ見ないけどすごく好きでした
【岩波書店/人間晩年図巻 2000-03年】
『人間晩年図巻』より 彼女がいたら、なんと言っていたかな?とたびたび思います。
いまだに「生きていたらなんて言うかなあ」と思うのは父親とナンシー関さんだけです。
『人間晩年図巻』より
自分からすると8学年上なので、かなり年上の毒舌オバさん、という印象です。>
《ナンシー関没後19年》
「約束を果たさないまま、逝ったのが心残りだったんだと思います」
稀代のコラムニストの知られざる“晩年”


…『自分の得意技「消しゴム版画」を武器に』
僕がナンシー関氏のコラムを読み始めたのは大学から社会人になる頃。こんな才能溢れる文章を書ける人が世の中にいるのかと衝撃だった。
『人間晩年図巻』より
ナンシー関の亡き後、キンビス先生こと大月隆寛は劣化したなあという印象が濃い。

→ 『人間晩年図巻』より
俺はナンシーさんの歳はとっくに越えているんだけど、早いな、没後19年かぁ…
いまだに不在が埋まらぬ。
昨日の会合でも話題になったのだが、金の取れる批判評が減った気が。というか、最強だったナンシー関がいた席が不在になっている。ポストナンシー関は、武田砂鉄さん?辛酸なめ子さん? 知らないだけで他にもいそう。
未だナンシー関を超えるコラムニストは見たことがありません。もっと読みたかったな。
『人間晩年図巻』(関川夏央)
私の憧れの人だった。
大好きだった。
彼女の絵に文にドキドキした。
関川夏央
ミュージックマガジンの表紙も→ 『人間晩年図巻』より
「 の後継者」を名乗るコラムニスト の感想が聞きたい。画像は2014/05/05撮影・梅田ロフト
美しい文章だなぁと思いつつ読みました。関川さんでした。
引越しの片づけで思わぬところから評伝が出てきたから、思わず読んだ。>
ナンシーが生きてたらなぁって今でもよく思う。
《ナンシー関没後19年》
“ナンシーの場合は、自分の美意識にそぐわないターゲットを見つけたときに、本気を出しますよね”
ナンシーさんの著書は今もほぼ家に揃っている。辛口とか毒舌の女性有名人はその後も沢山出てきたけれど、私の中で彼女はずっと別格。
>「心に1人のナンシーを」といったのは、のちに「CREA」誌上で対談を連載した民俗学者の大月隆寛
twitterには「心にナンシーを」潜ませてると思わせる人が少なくない。しかし彼女を超えると言える存在は未だ見ない。だいぶ場所をとってしまうからなあ
『人間晩年図巻』より ナンシー関はんのことは「通り一遍」程度に知っておしたが、関川はんの淡々とした語りがようおした。
私が小学四年生の時のちょうど今頃、学研の四年の学習の年末付録が「ナンシー関監修消しゴムハンコ年賀状作成キット」だったの思い出した。
ネットでお笑い評論家なるものの薄っぺらい評論を見るにつけ、ああナンシー関が居てくれたならと思うのであった。
『人間晩年図巻』より
もう19年かあ
『人間晩年図巻』より
冒頭の《 →
文春オンラインで、関川夏央『人間晩年図巻 2000-03年』 を一部公開。田山幸憲さん、ナンシー関さんの回です。☞
『人間晩年図巻』より
ラスト、飛行機のくだりがせつない。
Youtubeの批評を書くナンシー関のような人が出てきてほしい
《ナンシー関没後19年》(文春)


訃報を聞いた瞬間のことは今でも覚えてる。
お別れの会も行った。ああいう場で泣いたのは、後にも先にもこの時だけ。ケッて言われそうだけど。
ナンシーさんが今健在ならば、どんなコラムを書いていたかなあ・・・BHでその存在を知ってファンになった。
しみじみといい文章で、何度も読んで、泣いた。
関家の長女として生まれ、直美と命名された。家業はのちガラス屋一本にしぼった。彼女はラジオ深夜放送を愛した世代で、高校3年が終る頃始まった「ビートたけしのオールナイトニッポン」から、語り口とものの見方に深い影響を受けた。
もう、19年も経つのかぁ
文春オンラインに関川夏央のナンシー関評傳を讀む。
青森に来てすぐ、この方のご実家(ガラス屋さん)とアニータの家は見に行ったww
いい文章
「ナンシー関」の文字がいきなり目に飛び込んできた朝。
コラム、好きだったなー。
関川夏央氏が、記憶に残る著名人の晩年を描いた『 人間晩年図巻 2000-03年 』(岩波書店)の一部を抜粋。稀代のコラムニス
もう19年も前なのか…
大学の時にめちゃくちゃ読んだ。
ナンシー関がタモリ倶楽部に出た時、有名な「円楽に褒められて喜ぶ歌丸」の連続版画の傍に横浜銀蝿の翔が飾ってあって、「円楽なんて目じゃねえって言ってます」と言ってたのが面白かった
私も「心に1人、ナンシーを」の人です。

『人間晩年図巻』より
『人間晩年図巻』より 30メートル歩いただけで休むなんて………
早死にしてしまうわけだわこれじゃ………
ナンシー関のコラムは大好きやった。中高生の頃ナンシー関と数学者の森毅のコラムを読みまくって人格形成に多大な影響を受けた。
《ナンシー関没後19年》稀代のコラムニストの知られざる“晩年”
小説家・ノンフィクション作家として活躍する 関川夏央 氏が、記憶に残る著名人の晩年を描いた『人間晩年図巻 2000-03年』の一部を抜粋。
この人とらもさんは、生きておられたらこのことについて何て書くかなぁと今でも折に触れて思う。
職場に置いてる雑誌でいつも見てたな〜。
ナンシーさんの文章、好きだったな。
ダウンタウンが大阪から東京に出てくるぐらいにナンシー関を知ったのか。当時のダウンタウンを評して地肩が強いと絶賛していたから慧眼。今の漂白されたTV界の事はつまらなく思っておられる事だろう。
文春さんはちょっと、なんだけど、これは泣いてしまう。
愛読者だった。訃報に接した時、ショックだった。
この記事で10時間以上かけて青森に帰ったと知り、泣いた。
もう19年…
ナンシーさんが生きてたからってどうにかなるもんでもないだろうけど、その19年でこの国はマジ終わりかけてる。
『人間晩年図巻』より
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